ちなみに芸大へ行ったことで孝は精一郎からとうとう勘当されました。芸大に入った1928年にピッチ確定に必要な、誰も気づかなかった落とし穴ともいうべき12穴式(11個以上の穴の総称)というアイデア(指穴以上の穴をあけるとその穴はラッパになってしまうと、それ以前の人は思い込んでいた!)を発見。その後その発想のもと弁証法的にオカリーナ製作研究へと没頭していきました。これは父の親友でオカリーナ50年来の発売元(株)プリマ楽器の元専務、故・安田稔氏が父から聞いた話で、このことは昔のオカリーナのカタログにずっと載ってました。
15年くらい前、1928年って父のいくつの時だろうと調べてみたら何と20才。ウソと思ったわけです。そして安田氏や弘から話を聞いてたらオカリナ歴はもっとその前に逆のぼってたのです。彫刻の一番原型は粘土でそれをテラコッタ(素焼)状に焼く、これはまさにオカリーナの作り方と同じで12穴式発明状況においてはまさに彫刻の技術が不可欠だったのかもしれません。そしてこれらの研究がオカリーナがポピュラーなものになるきっかけとなっていくわけです。プラスチックのオカリーナも一時研究、しかしプラスチックは駄目ですね。すぐ似せ物ぶりがばれる。
孝は折しも僕の生まれた1950年に晴れて12穴式で特許が下り、以来30年間その特許は続き(株)アケタが独占していました。最近はオカリーナ・ブームなのかメーカーも愛好家も大変増え、孝との出会いから年月をかけ広がってったものもその多くをしめてることと思います。たとえば僕が監修する日本音楽アカデミーのオカリーナ通信講座だけでも15,000人以上もの生徒がいます。これも孝からの輪です。
僕とずっと研修を重ねてきている吉塚光雄君もオカリーナ作りとしてメーカーとなっていった。史上最高の人・中塚純二。氏によってオカリーナとの出会いを得、その素晴らしさを知った人の数はぼう大で、帆足たか子や山崎万理子、梶川知子ら名手も生まれています。オカリナ指導の柳原徳蔵氏や全日本オカリーナ協会主催の高橋光雄氏も氏との出会いからはじまった。人気を博す名手・本谷美加子嬢や小出道也氏はオカリーナ普及にいつも協力して頂いてます。我が母で名工でもある(株)アケタ会長・明田川カヅ(大正8年新潟は柏崎生まれ)は父の死後、女手でオカリーナの製作と経営を長らく支え、現在でも名品を作るバリバリの職人。男手は父の死後、火山氏、そして高橋、中塚、そしてこの20年程僕がオーナーとなり集団指導体制で、CD制作とライヴハウスも入れると20人以上の人が働く工房へと発展してきています。
ぜひアケタ・オカリーナ、お買いーな!と、実はこの一言が言いたくて今までがあったわけです。ガン! いてっ、んもー良心様たらー。
…………明田川荘之(『風の人』ライナーノーツより)